【ウイスキーコニサー資格認定試験教本2021下巻より転載】
「南蛮酒」と呼ばれる西洋の酒が日本に伝えられたのは、種子島への鉄砲伝来(1543年)やキリスト教宣教師の来訪(1549年)以降の室町時代とされるが、ウイスキーが伝えられたのは、江戸時代末期の1853年にペリー提督が来航した、いわゆる「黒船来航」の時が最初と考えられている。この時スコッチとアメリカンウイスキーが持ち込まれたと記録に残されており、交渉に当たった日本側の役人や通訳に、ウイスキーが振る舞われていた。翌1854年の2度目の来航時には、第13代将軍、徳川家定にアメリカンウイスキー1樽が献上されたという。この時、江戸幕府とアメリカとの間で結ばれたのが日米和親条約で、これによって250年続いた江戸幕府の鎖国政策は終わりを迎えた。
1856年に日米修好通商条約を結ぶために下田に来航した、アメリカ初代総領事のタウンゼント・ハリス(1804~78)は、ウイスキーを含む酒類を持ち込み、また当時中国にあった商社を通じて酒類を取り寄せ、交渉の過程で酒席を設けている。また欧米諸国に派遣された使節団や留学生らも洋酒に親しむようになっていった。日米通商条約の締結により1859年に開港した横浜や長崎などの外国人居留地では、ジャーディン・マセソン商会、デント商会といった大手商社のほか、大小さまざまな企業が進出し、ウイスキーは初め、これら日本に住む外国人のために輸入されていたが、幕末から明治初期にかけて次第に珍しくて貴重な飲料として知られるようになり、輸入商社や薬種問屋でビールやブランデーなどとともに、日本人向けに輸入されるようになった。
ウイスキーを扱った商社としてはベイカー商会、タサム商会、キャリエル商会、シュルツ・ライス商会、カルノー商会などが知られているが、その後もエフ・レッツ商会、コードリエ商会をはじめとする多くの会社が洋酒の取扱いを行っている。また問屋では横浜の吉田豊吉が興した「尾張屋」などが有力であったとされる。現在の大手商社の「国分」が食品販売業に進出したのは明治10年代からで、明治18年には磯野計が「明治屋」を創業している。明治以降、本場のウイスキーも輸入品として入ってきたが、やがて舶来嗜好の流行にのった薬用葡萄酒などとともに、混成・イミテーションウイスキーともいえる国産洋酒が造られるようになっていった。これは醸造アルコールに香料や砂糖を加えたもので、時には少量のスコッチを加える場合もあったが、本来のウイスキーとはかけ離れたものであった。 輸入品の関税が不当に低く抑えられていたため(不平等条約)、安い輸入アルコールが原料として用いられたもので、洋酒類を模造する商売は利潤が高かったという。洋酒製造を手がけた会社としては、1871(明治4)年に薬種商の瀧口倉吉がおこした「甘泉堂」、生産量が多かった神崎三郎兵衛、蜂印甘味葡萄酒で有名な神谷伝兵衛、大阪では橋本清三郎、小西儀助、横山助次郎などの会社があり、明治初期から30年代にかけて、コンパウンド(調合)ウイスキー造りに参入する事業者はかなりの数に達した。
この時代の日本人で、ウイスキー造りにひとつの足跡を残した人物として、アドレナリンの発見で有名な薬学・生化学者の高峰譲吉(1854~1922)の名を挙げることができる。母方の実家が石川の酒造家であった高峰は、1890(明治23)年に元麹改良法の研究が認められてアメリカに招かれ、モルト(大麦麦芽)を用いずに麹を使ってトウモロコシからアルコールを造る方法の実験に成功した。また小麦のフスマを原料に元麹をつくり、ウイスキー造りを行う方法を開発。現地(イリノイ州)に法人を設立し生産する準備を進めたが、麦芽生産業者などの妨害により挫折してしまった。この実用化が広がっていれば、バーボンを始めとするアメリカのウイスキー造りは、現在とは異なるものへ変化を遂げていた可能性もある。
高峰は1894(明治27)年にタカジアスターゼを発見。これはデンプンを分解(糖化)する代表的なアミラーゼ(酵素)であり、グルコース、麦芽水飴、アルコールやウイスキー製造への利用のみならず、製パンや胃腸薬などに広く利用されることになった(高峰は三共製薬の創業者でもある)。
国内では長い歴史をもつ日本酒醸造元や、焼酎の蔵元が広く存在していたが、ここを基盤として明治以降、アルコール製造も産業化の道を進んだ。1899(明治32)年に通商の改定条約実施の詔書が発布され(不平等条約の解消)、アルコールの輸入税が増加されたことと、1901(明治34)年に酒税が改定、酒精含有飲料税法が発布されたことで、模造洋酒製造者の採算は悪化し、安価な輸入アルコールに頼っていた中小の洋酒業者は撤退を余儀なくされてしまった。
かわって台頭したのが、国産のアルコール蒸留業者で、当初は大麦、トウモロコシ、サツマ芋などが原料に用いられたが、やがて台湾産の切干甘藷(かんしょ)が安く手に入るようになり、これで大量の醸造アルコールが造られるようになった。さらに日清・日露両戦争の頃に、台湾で盛んになった製糖事業で生じた廃糖蜜(モラセス)から生産される醸造アルコールが輸入され、国内製造者は競争を強いられることになるが、需要の拡大もあって産業として発展していった。
日清戦争後の1895(明治28)年頃より、アルコール製造のためのイルゲス式連続式蒸留機が日本へ輸入されており、1910(明治43)年に愛媛県宇和島で連続式蒸留機を使って、切干甘藷(かんしょ)から新式焼酎(ハイカラ焼酎)が造られている。代表的メーカーとしては、神谷伝兵衛が関わったアルコール工場が1900(明治33)年頃より北海道旭川で稼働。さらに神谷酒造では1906(明治39)年にウイスキー造りも始めている(旭川工場はその後、合同酒精へと発展)。
大阪では摂津酒造が1907(明治40)年にアルコール製造を開始、1911(明治44)年から自社製アルコールを使ったウイスキー造りを始めている。摂津酒造は薬種業者にもアルコールを販売、または委託を受けてウイスキーの製造などを行っており(寿屋の赤玉ポートワインやヘルメスウイスキーなども当初中身は摂津が造っていた)、1913(大正2)年には年間240石(約4万3200リットル)を造る最大手の会社に成長している。当時、「東の神谷、西の摂津」と並び称されたものである。
1902(明治35)年に日英同盟が締結されて以降、本場のスコッチの輸入が増加し、一般大衆の酒類に対する知識も向上した。本格的なウイスキーの製造を実現させたのは、明治40年代以降、甘味葡萄酒の「赤玉ポートワイン」(1907年発売)で成功をおさめた寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎(1879~1962)であった。
ウイスキーの製造を学ぶために摂津酒造からスコットランドに派遣(1918~20)された竹鶴政孝(1894~1979)を1923年に会社に迎え入れ、京都にほど近い大阪・山崎の地に蒸留所を建設した(現山崎蒸溜所)。1924年に竣工した山崎蒸溜所で造られたウイスキーは、1929年に「サントリーウ井スキー」、通称白札として発売された。これが我が国初の本格ウイスキーであり、1923年は日本の「ウイスキー元年」とも言われている。
戦前のウイスキー造りでは寿屋のほかに東京醸造、大日本果汁が有名である。1924年に神奈川県藤沢市に創業した東京醸造(1955年撤退)はリキュール製造で知られたが、1937年に国産第2号といわれる「Tomy's Malt Whisky」(トミーモルトウ井スキー)を製造し、明治屋を通じて販売を行っている。
寿屋を退職した竹鶴政孝が1934(昭和9)年に興した大日本果汁(現ニッカウヰスキー)は、スコッチウイスキーの造りにならい、同様の風土を求めて北海道余市に工場を建設して、2年後よりウイスキーの生産を開始。1940(昭和15)年には第1号となる「ニッカウ井スキー」を発売している。また宝酒造の「キングウイスキー」も高い評価を得て、1943(昭和18)年には当時雑酒に分類されていたウイスキー初の等級付けで、サントリー、ニッカとともに本格ウイスキーの1級指定銘柄に認定されている。
第二次大戦の頃は海外からの洋酒輸入の停止や、酒類の公定価格設定、配給制度といった状況にあったが、アルコール飲料は終戦直後から多くの人に求められ、様々な酒類が世の中に氾濫した。闇取引や粗悪な酒類の横行によるアルコール中毒者が急増したのもこの時期で、「カストリ」、「バクダン」などと呼ばれた焼酎や、アルコールに香料や色付けをしただけの製品もウイスキーとして流通していた。また戦後は東洋醸造、大黒葡萄酒(のちのメルシャン)、本坊酒造など多くの企業がウイスキー事業に参入し、アルコール製造大手の協和醗酵などもウイスキーを扱うようになった。
消費量は回復していくが、洋酒に対する公定価格が廃止されたのは1949(昭和24)年で、実際にウイスキーの自由販売が認められたのは翌1950年のことである。以後ウイスキー原酒の混和比率の低い3級ウイスキーを中心に自由競争時代へと突入していった。中小の生産者の撤退期を経て、寿屋(サントリー)、大黒葡萄酒(オーシヤン)、大日本果汁(ニッカ)が大きなシェアを占めるに至り、昭和30年代以降の高度経済成長時代には、3社の名を冠したバーが全国に急増、ウイスキーは大ブームとなった。激しいシェア争いが続き、この頃「ウイスキー戦争」なる言葉も生まれている。
寿屋の『トリスを飲んでハワイに行こう』キャンペーン(1961年)など、マスメディアを利用して消費の拡大が図られたのは日本の特徴といえるが、日本料理屋で和食にウイスキーを合わせる「二本箸作戦」、ウイスキーのボトルキープ、水割り文化の浸透など、日本独自の愉しみかたが次々と提案されていったのも、日本のウイスキーの大きな特徴である。オンザロックの流行には、冷蔵庫の普及により、家庭で手軽に氷が作られるようになった社会事情も影響している。
1971(昭和46)年にはウイスキーの貿易が自由化され、数量、取引金額に制限なく輸入ができる時代となった。1972(昭和47)年には、国際的な総合酒類メーカーのシーグラム社の資本参加で生まれたキリン・シーグラム社(現在のキリンディスティラリー)が事業に加わっている。高い関税率にもかかわらず高級志向でウイスキーの輸入量は増加し、翌1973年には特級ウイスキーの消費量が2級に追いつき、それ以降は逆転した。寿屋から改称したサントリーは「オールド」で販売量世界一(1980年に年間約1,240万ケース出荷)を達成し、日本の代表的メーカーという立場を確立していった。1976年のアメリカ建国200年祭の頃にはバーボンの輸入量が増加、1980年代には日本酒の地酒ブームと同じく、「地ウイスキー」が注目されることになった。
その後ウイスキー類の消費量は1983(昭和58)年をピークに減少に転じ、乙類(本格)焼酎にも追い抜かれ、ビール、焼酎、日本酒に水をあけられてしまった。課税数量でみても1983年度を頂点に、2008年度はピーク時の2割程度にまで消費量が落ち込んでいる。しかし2008年頃からハイボールブームなどで再びウイスキー需要が高まり、奇跡的なV字回復を果たしている。2014年9月からはNHKの連続テレビ小説『マッサン』の影響もあり、日本におけるウイスキー市場は空前の活況を呈している。
世界的な貿易自由化の流れに沿って1989(平成元)年にウイスキーの級別が廃止され、酒税の大幅変更が実施されたことで、本場のスコッチなどの輸入品がより身近となった。大部分の製品はブレンデッドウイスキーであるが、シングルモルトにも目が向けられるようになり、味わいや個性とともに、その造りや歴史に関心を寄せ、愉しむ人々が増え続けている。
日本のサントリー、ニッカ、宝酒造、キリンといった大手メーカーは、それぞれ海外の蒸留所のオーナーにもなっているが、国籍や酒類といった枠を越えて多分野で活動する巨大企業が世界中で多く誕生していて、ウイスキー製造者の合理化や統合、国際化はこれからも、ますます盛んになっていくと思われる。ジャパニーズウイスキーに関しては2000年以降、海外のスピリッツコンテストで優秀な成績を収めており、世界的な認知度と評価の高まりを見せている。
またベンチャーウイスキーが埼玉県秩父市に蒸留所を建設し、2008年から生産を始めたことも大きな話題となった。さらに2014年にはサントリーがアメリカのビーム社を1兆7000億円で買収し、大きなニュースとなった。その結果ビームサントリー社が誕生し、サントリーは、ディアジオ(英)やペルノリカール(仏)と並ぶ、世界有数のプレミアムスピリッツメーカーとなっている。
さらに世界的なクラフトウイスキー、クラフト蒸留所ブームを受けて、日本国内にも2016年頃から相次いでクラフト蒸留所が誕生し、空前のウイスキーブームに沸いている。現在、計画段階のものも入れると、日本のクラフト蒸留所は30近くになっている。
西暦(和暦) | 出来事 |
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1435年(永享7年) |
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1477年(文明9年) |
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1515年(永正12年) |
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1543年(天文12年) |
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1549年(天文18年) |
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1559年(永禄2年) |
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16世紀 |
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1582年(天正10年) |
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1600年(慶長5年) |
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1603年(慶長8年) |
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1613年(慶長18年) |
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1639年(寛永16年) |
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1653年(承応2年) |
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1782年(天明2年) |
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1793年(寛政5年) |
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1811年(文化8年) |
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1812年(文化9年) |
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1841年(天保12年) |
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1853年(嘉永6年) |
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1854年(嘉永7年) |
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1856年(安政3年) |
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1858年(安政5年) |
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1859年(安政6年) |
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1860年(安政7年) |
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1861年(文久1年) |
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1862年(文久2年) |
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1863年(文久3年) |
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1866年(慶応2年) |
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1867年(慶応3年) |
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1868年(明治1年) |
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1871年(明治4年) |
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1873年(明治6年) |
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1879年(明治12年) |
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1883年(明治16年) |
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1890年(明治23年) |
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1894年(明治27年) |
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1899年(明治32年) |
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1902年(明治35年) |
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1904年(明治37年) |
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1906年(明治39年) |
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1908年(明治41年) |
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1911年(明治44年) |
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1912年(明治45年) |
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1918年(大正7年) |
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1919年(大正8年) |
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1923年(大正12年) |
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1934年(昭和9年) |
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1936年(昭和11年) |
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1937年(昭和12年) |
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1938年(昭和13年) |
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1939年(昭和14年) |
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1940年(昭和15年) |
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1946年(昭和21年) |
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1947年(昭和22年) |
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1950年(昭和25年) |
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1968年(昭和43年) |
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1973年(昭和48年) |
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