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日本の鎖国を終わらせたペリー提督と横浜の発展
歴史
2021-09-13
文/土屋 守
日本の鎖国を終わらせたペリー提督と横浜の発展
アメリカ海軍の申し子
横浜が開港したのは1859年(安政6年)で、それは明治維新が成立する9年前のことであった。横浜の開港と、日本の開国には一人の人物の存在が大きく関わっている。4隻の黒船で来航したアメリカのペリー提督である。
ペリー提督の肖像写真。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も寝られず」と狂歌にもうたわれたペリーの艦隊が、浦賀沖にその姿を現したのは、1853年(嘉永6年)7月8日のことだった。黒船といわれたのは、当時の外洋船は木材の腐食を防ぐために、タールで黒く塗られていたからだ。上喜撰は最高級の宇治茶のブランド名で、カフェインが強く、たった数杯飲んだだけで目が冴えて、眠れなかったことに由来する。上喜撰と蒸気船、四杯と4隻をかけているのは言うまでもない。
この時の4隻の船はサスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマス号で、実際にはサスケハナとミシシッピ号が外輪蒸気船、サラトガ、プリマスは蒸気船ではなく帆走船である。ペリーが乗艦したのはサスケハナ号で、サスケハナもミシシッピもアメリカの河川から名付けられている。軍艦に川の名前をつけるのは、アメリカ海軍の当時の伝統で、ミシシッピ川はもちろん北米一の大河のこと。サスケハナは首都ワシントンのそばを流れる川の名前である。どちらも、その建造にはペリー自身が深く関わっており、なかでもミシシッピ号は、メキシコ戦争(テキサスの領有をめぐりアメリカとメキシコが闘った戦争)以来、ペリーが旗艦として慣れ親しんだ蒸気船であった。
伊豆・下田方面から三崎沖を通り、ペリー一行が浦賀沖に投錨したのは同日夕方5時過ぎ。サスケハナを先頭に、4隻の黒船は縦一列に陸地と相対し、陸地側の砲門は開けられ、甲板上の水兵も全員戦闘態勢だったという。それは有無を言わせぬ、ペリーの「力」の誇示でもあった。
ペリーこと、マシュー・カルブレイス・ペリーは1794年、アメリカ北東部のロードアイランド州ニューポートに、海軍一家の3男として生まれている。ペリー家の出身はイギリス南西部のデボン州で、1630年代にマサチューセッツに移民した初期移民グループの家系である。ただしボストン近郊は清教徒が多かったため、クェーカー教だった一家は後にロードアイランドに移住している。
ニューポートにあるペリーの生家。
ペリーの父クリストファーは、アメリカ独立戦争の際に私掠船の船長として英国の艦船と戦った海の男で、何度も英海軍に捕まっている。アイルランド沖で捕虜になった時に、北アイルランドのベルファストで、スコットランド系アイルランド人(スコッチ・アイリッシュ)のセーラ・ウォレス・アレクサンダー嬢と恋に落ち結婚。故郷のニューポートに戻って新婚生活をスタートさせた。ペリーが生まれた1794年は、アメリカに海軍が誕生した年で、父も兄弟もすべて海軍に奉職し、ペリーも14歳と9ヵ月で、士官候補生として海軍に入っている。いわばUSネイビーの誕生から、その発展期にかけ活躍した、アメリカ海軍の申し子といってもよい存在なのである。
ペリーは海軍の中で順調に昇進し、前述のメキシコ戦争(1846~48年)の際には、メキシコ湾艦隊司令長官として、合衆国を勝利に導いている。この頃ペリーが熱心に取り組んでいたのが、蒸気軍艦の建造で、ニューヨークのブルックリン海軍工廠で、ミシシッピ号などの建造の指揮を執っていた。ペリーは「日本開国の父」というよりも、アメリカでは「蒸気軍艦の父」として、知られているという。
そんなペリーが、人生の終盤にさしかかった57歳の時に拝命されたのが、東洋艦隊(東インド艦隊)の司令長官の座で、正式に日本遠征を命じられたのは1852年3月24日のことであった。実は日本に開国を迫る東洋艦隊司令長官には、すでにオーリック提督が決まっていたが、わずか2ヵ月で不祥事を起こし、更迭されていた。過去2回日本に開国を迫るも、その度に失敗(オーリックを含めると3度)という苦い経験を繰り返してきた合衆国政府にとって、ペリーは最後の切り札、本当の意味でのエースの登場だった。
久里浜のペリー博物館に展示されているサスケハナ号の模型。
ベストセラーとなった『日本遠征記』
当初ペリーは、日本遠征に難色を示していた。晩年のペリーの希望は地中海艦隊の司令長官だったという。しかし当時アメリカの捕鯨産業はピークを迎えていて、日本と和親条約を結ぶことが急務であった。捕鯨の中心基地はペリーの故郷でもあるニューポート。当時日本近海に1,000隻近いアメリカの捕鯨船が展開していて、その補給(石炭や薪、水や食料)や、緊急避難のために日本の港に寄港できることが、なんとしても必要であった。
人生最後の名誉ある大仕事としてペリーが引き受けたのは、そんな事情もあってのことと思われるが、ペリーには「これは自分にしか出来ない」という、強い自負もあったのだろう。未知なる海域で2年以上にわたる遠征と、粘り強い外交交渉、10隻近い艦隊を率いてそれを遂行するためには、高い指揮能力と、実務家としての冷静で緻密な判断力が要求される。海の男として40年以上海軍で暮らしてきたペリーだからこそできる、世紀の大事業であった。
遠征には実務家らしいペリーの能力が遺憾なく発揮されている。ひとつは数と力による外交交渉だ。10隻という艦隊の数にも、それは表われている。これだけの艦隊で、日本に開国を迫った例は過去に一度もなかった。そしてもうひとつが、単なる司令長官としてではなく、特命全権大使として日本に赴くことを、時の大統領に認めさせたことである。これで、すべては現場に赴くペリーの手に委ねられたことになる。遠く離れたアメリカにいる大統領の裁可をあおぐことなく、必要とあらばペリーは江戸幕府に対して宣戦布告することも可能となったのだ。
ペリーがミシシッピ号に乗って、米東部ヴァージニア州のノーフォーク軍港を出港したのは1852年11月24日のこと。大西洋を横断し、アフリカ最南端の喜望峰を回り、インド洋を経て香港、上海に入ったのが翌53年5月のことである。すでにアメリカを発って半年が経過していた。上海で先行していたサスケハナ、サラトガ、プリマス号と合流し、琉球、小笠原経由で江戸湾入口にある浦賀沖に来航したのが、前述の7月8日のこと。浦賀奉行の戸田氏栄(伊豆守)は早馬で江戸に知らせを送り、江戸城では老中の阿部正弘を中心に急遽対策が協議された。しかし結論は「長崎に回航すべし」という、従来通りのものだった。
それに対するペリーの返答は「江戸湾奥まで航行し、直接将軍に大統領の親書を手渡す」という強硬なもの。結局、幕府が折れ、浦賀よりやや南方にある久里浜で正式に大統領(第13代ミラード・フィルモア)の親書を受け取ることになった。これが同年7月14日のことで、「親書に対する返答は長崎で行う」という幕府の返答を無視し、近いうちに再び江戸湾に来航するという意向を伝えて、ペリーの艦隊は浦賀を去って行った。
久里浜の上陸記念塔とペリー博物館。
横浜と日本の将来をすでに予見
2度目の交渉に臨むため、ペリーが再び江戸湾に姿を現わしたのは翌1854年2月のことである。今度は7隻で来航し、後に2隻が艦隊に合流している。ペリーが乗船する旗艦は、サスケハナから最新鋭のポーハタン号に移っていた。 強い季節風を避けるためという理由で、ペリーの艦隊は浦賀から観音崎を回り、現在の横浜沖に投錨した。4隻の黒船でも、幕府に与えた衝撃ははかり知れないものがあったが、今回はその倍。しかも江戸と目と鼻の先の距離にある横浜に投錨したのだから、幕府のあわてようは尋常ではなかった。
現在の浦賀港。ペリーの艦隊は、この湾の外側に停泊した。
当初、交渉場所をめぐり、幕府とペリー側で激しいかけ引きがあったが、最終的に浦賀ではなく、ペリー側が主張する横浜が選ばれた。当時の横浜は砂浜と畑が広がるだけの半農半漁の寒村にすぎなかったが、将来、横浜が良港として発展することを、ペリーは前年の偵察ですでに予見していたという。もし会見場所が幕府側が主張する浦賀だったら、今日の横浜の発展はなかったかもしれない。まさに横浜の運命は、この時に決まったといっていい。
幕府側との交渉は4回にわたり行われ、この年の3月31日に日米和親条約(神奈川条約)が締結され、日本は長い鎖国から、開国へと大きく舵を切った。ペリーは幕府へ多くの献上品を持参していたが(その量はボートで24隻分!)、その中には4分の1サイズの蒸気機関車や電信装置など、近代工業製品が多く含まれていた。これらは横浜で実際にデモンストレーションが行われたが、日本人にあたえたショックは相当に大きかったものと思われる。余談だが、この時に第13代将軍家定にウイスキーの樽一樽が献上されている。
一方でペリーは日本人の教養の高さ、独自の文化を高く評価していた。アメリカに戻り、『遠征記』編纂の合間に、ペリーは全米各地で講演を行っているが、その時に「日本人は将来、機械分野でアメリカの強力なライバルになる」と、言っていたという。 日本を開国に導いたペリーは、その後ヨーロッパ経由で1855年にニューヨークに戻り、晩年は遠征隊の報告書をまとめる仕事に没頭した。公式記録である『日本遠征記』全3巻のうち、最初の第1巻が刊行されたのが、1856年4月。この『遠征記』は大ベストセラーとなり、探検記としても高い評価を受けた。
しかしペリーそのものの業績は、その後1861年に勃発したアメリカの南北戦争によって、正当な評価を受けることなく、歴史の闇に葬られてしまった観がある。今日アメリカでペリーといっても、一般の国民がほとんど知らないのはそのためだ。250年近く続いた日本の鎖国を終わらせ、日本の近代化の礎を築いた人物としては、いささか寂しすぎる気もするが、ペリーは南北戦争が始まる前の、1858年3月に亡くなっている。享年63、それは横浜が開港する1年前のことであった。
ペリーの1854年の遠征は日米和親条約という形になったが、それを受け1856年に下田に来日したハリスとの間で締結されたのが、日米修好通商条約で(1858年)、これにより横浜と長崎、箱館が通商(貿易)目的で開港されることになった。この通商条約は、その後イギリス、フランス、ロシア、オランダとの間でも結ばれている。 横浜が実際に開港し、外国人居留地ができたのは翌1859年7月のこと。砂浜には桟橋が築かれたが、そこはまさに、ペリーが条約調印のために上陸した場所だった。
横浜に上陸したペリー一行を描いた当時の絵画。
ホテルもバーもビールも横浜が発祥…
開港した横浜はその後日本最大の貿易都市として急速に発展していくことになる。もともと半農半漁の寒村だったので、開港と同時に都市機能の整備や建設が急ピッチで行われた。正式の開港日(1859年7月)以降は居住する外国人も増え、商館が立ち並んだ。当然、横浜発祥のものが数多くある。食肉、牛乳、パンなど、すべて横浜が初で、他にも鉄道、電気、電信、蒸気船、ガス灯と数えあげたらキリがない。競馬やボートレース、ヨット、野球、クリケット、テニス、スケートなども、すべて横浜が発祥だという。
横浜初(日本初)の西洋式ホテルは「横浜ホテル」といい、上海の英字新聞『ノース・チャイナ・ヘラルド』の1860年3月10日号に、開業の広告が載っている。開業は同年2月だが、このホテルの経営者は、オランダ船ナッソー号の元船長、フフナーゲルであった。英文の広告を見ると「ボード&ロッジング・イン・モダンスタイル」とあるので、食事などの提供もしていたのだろう。後にこの横浜ホテル内に日本初のバーがオープンしている。このホテルには、英国公使オールコックやシーボルト、画家のハイネやワーグマンなど、著名人が投宿している。
上陸場所(現在の大桟橋)に近い英一番館に所在したのが、イギリス系商社のジャーディン・マセソン商会である。東インド会社の船医だったウィリアム・ジャーディンと、カルカッタ(現在のインドのコルカタ)で貿易商をしていたジェームズ・マセソンの2人のスコットランド人が、1832年に広州に設立した会社で、日本の幕末にも大きく関わっている。同社の長崎における代理人として1859年に来日したのが、トーマス・グラバーだが、横浜では一等地である一番地に商館を建て、主に生糸やお茶の貿易を開始している。現在、ジャーディン・マセソン商会があった場所には碑が建てられ、その横には生糸貿易の名残ともいうべきシルクセンターが建てられている。
横浜初のビール工場は、山手46番地に建設されたジャパン・ヨコハマ・ブルワリーで、少し遅れて1870年(明治3)に同じ山手68番地にコープランドが、スプリングヴァレー・ブルワリーを開業している。コープランドはノルウェー生まれのアメリカ人で、山手68番は天沼と呼ばれる地区。そこに清泉の湧き出すのを見て、ビールの醸造を思いたったといわれている。
コープランドのビールは「天沼ビアザケ」として日本人にも親しまれ、やがてこれがキリンビールとして発展。社名も明治40年には麒麟麦酒株式会社と改名された。現在この地には、巨大な「麒麟麦酒開源記念碑」が建てられ、その場所も麒麟園公園と名付けられている。
(ペリーが持ち込んだウイスキー、ジャーディン・マセソンについては『土屋守のウイスキー千夜一夜』の中に関連記事があります)。
【初出: ウイスキーコニサー資格認定試験教本2021下巻 】
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